大杉 漣(おおすぎ れん、1951年9月27日 - )は、日本の俳優。徳島県小松島市出身。
明治大学中退。身長178㎝、体重72㎏、血液型はB型。かつての所属事務所は、高岡事務所。
2007年4月2日付でZACCOへ移籍。趣味は、散策、サッカー、音楽(特にフォーク)鑑賞、器楽(ギターおよびブルースハープ)、テニス、サーフィン。好きな色彩は、黒。座右の銘は「あるがままに」。
来歴
劇団活動との出会い 当時人気を呼んでいた蜷川幸雄・寺山修司・唐十郎らの演劇を観に客席に通い、1973年に吉祥寺のライブハウスで雑誌『新劇』を読んだ際、掲載されていた太田省吾の記事に感動して、併載されていた太田の劇団員募集広告に応募しすぐに研修生として採用される。
22歳で「娼婦を買いに来る客A」を演じ、別役実作品の「門」で舞台デビューを果たした。
明治大学中退。身長178㎝、体重72㎏、血液型はB型。かつての所属事務所は、高岡事務所。
2007年4月2日付でZACCOへ移籍。趣味は、散策、サッカー、音楽(特にフォーク)鑑賞、器楽(ギターおよびブルースハープ)、テニス、サーフィン。好きな色彩は、黒。座右の銘は「あるがままに」。
来歴
劇団活動との出会い 当時人気を呼んでいた蜷川幸雄・寺山修司・唐十郎らの演劇を観に客席に通い、1973年に吉祥寺のライブハウスで雑誌『新劇』を読んだ際、掲載されていた太田省吾の記事に感動して、併載されていた太田の劇団員募集広告に応募しすぐに研修生として採用される。
22歳で「娼婦を買いに来る客A」を演じ、別役実作品の「門」で舞台デビューを果たした。
1974年には太田省吾が転形劇場を創設するにあたって初期メンバーとして参加、セリフなしに静かに舞台を歩んで演じる「沈黙劇」を原点として、舞台俳優としての本格的な活動を始める。
大杉は、この転形劇場での活動に打ち込み全公演に出演し、同劇場の演目「小町風伝」は岸田戯曲賞を受賞するなど活躍している
下積時代
演劇活動と平行し、呑み仲間を通じて知己となった高橋伴明に誘われて、1980年に新東宝のピンク映画「緊縛いけにえ」に出演し映画俳優としてもデビューすることとなった。
舞台経験を通じて培った表現力と本人の映画俳優への興味から好演したため、製作者を中心に評判を呼び、映画関係者への人脈拡大に伴って日活ロマンポルノや新東宝などのピンク映画に積極的に出演するようになった。
1983年の滝田洋二郎監督の「連続暴姦」においては演技力が評価され、同年の「ZOOM-UP映画祭」・ピンクリボン賞主演男優賞を受賞している。また、翌1984年の周防正行監督の小津映画リスペクト作品「変態家族 兄貴の嫁さん」に於ける、静けさの中にも狂気をたたえた演技や風かおるとの独特の掛合いなどによって、さらに好評を得る様になった。
その後も、おびただしい数のピンク映画に出演するが、1985年6月以降は「にっかつ電車シリーズ」と呼ばれるもの以外の映画への出演を控え、転形劇場における活動に専念している。
しかし、太田省吾一人の才能に頼りがちで興行的にも決して成功しているとはいえなかった転形劇場の運営は悪化し、1988年には転形劇場が解散することとなった。37歳で活動基盤の転形劇場を失った後も、宮沢章夫作品や太田省吾作品への出演、岩松了作品における竹中直人とのコラボレーションを通じて演劇界で活躍した。
俳優としての転機
1989年以降は、再び映画への出演を心がけるようになったが、主要な配役を得ることができず、Vシネマなどに多数出演して収入を確保する生活が続いた。
40歳代に入ると自身の俳優としての将来性について深く考える様になり、種々のステップアップを画策する一環として受けた北野武監督による『ソナチネ』(1993年)のオーディションに合格し、同作への出演を果たして脚光を浴びたことを転機として、次第に一般映画に於ける重要なキャストでの出演を重ねた。1997年には、サブ監督の『ポストマン・ブルース』でおおさか映画祭・報知映画賞を受賞。1998年-1999年にかけては、北野武監督の『HANA-BI』や、大谷健太郎監督の手による『アベックモンマリ』、崔洋一監督の『犬、走る DOG RACE』などにおいて卓越した演技を披露し、1999年度の国内映画賞の助演男優賞を多数受賞するに至って、一般映画やゴールデンタイムのテレビドラマなどの、主役・主要キャストとしての出演依頼がさらに増加すると、その名は広く一般に周知される様になった。
300の顔を持つ男
その後は、偉人群像から社会の底辺に生きる人物、公安刑事から体制破壊主義者、堅実なサラリーマンからホームレス、学校長からヤクザ、好人物から偏狭な人物、誠実な父親・夫から退廃的な不良中年、果ては精神異常・人格障害などを思わせるサイコ色の強い異常人格から変態・エロ系の人物まで演じるに至って、『300の顔を持つ男』と賞賛され「カメレオン」との蔑称を受けるほどになり、その俳優としての名を確固たるものとした。
以後は、高橋伴明、中村幻児、周防正行、滝田洋二郎、黒沢清、井筒和幸等のピンク映画系出身の諸監督から、北野武、サブ、廣木隆一、鈴木俊之、磯村一路、小松隆志、三池崇史らをはじめとする日本映画界を担うあらゆる監督にとって、無くてはならない存在になっている。
その反面、当時は地方(新潟)の一高校生による企画提案を受け、充分な報酬もなくアマチュア自主製作短編映画「黒いカナリア」の主役としての出演協力や、早稲田大学と慶応義塾大学の学生が中心となって撮り下ろした自主制作映画「Mogera Wogura」への出演をいとわないなど、決して驕ることのない性格を見せている。
近年においても、相変わらず、一般映画から大河ドラマ、2時間ドラマ、Vシネマ、インディーズ、ドキュメンタリーのナレーション、バラエティー番組をはじめ、アジア圏の外国映画や内外合作映画にまで出演要請されており、その広い活動範囲と人柄も相まって幅広いファン層を持つ。出演のペースは、映画出演に限っても年間10本は常に下らず、プログラムピクチャー全盛時代が去った近年においてこの出演数を維持する俳優はまれである上、これにテレビドラマやVシネマ、オリジナルビデオなどの出演本数を加えれば超人的な出演数をこなしており、総じて極めて精力的な活動を行っている。
受賞歴
1984年
* 第5回 ピンクリボン賞 主演男優賞
1998年
* 第23回 おおさか映画祭 助演男優賞
* 第23回 報知映画賞 助演男優賞
1999年
* 日刊スポーツ大賞 助演男優賞
* ヨコハマ映画祭 助演男優賞
* 高崎映画祭 助演男優賞
* おおさか映画祭 助演男優賞 (2)
* キネマ旬報個人賞 助演男優賞
* 毎日映画コンクール 助演男優賞
* 東京スポーツ映画大賞 助演男優賞
* 日本アカデミー賞 助演男優賞
* ブルーリボン賞 助演男優賞
人物像
1951年9月27日、徳島県小松島市で誕生する。
人柄
よく気遣いが行き届き、「大人の男」のイメージを持つ。座右の銘が「あるがままに」であることに見られるように、自然体を標榜しており飾らない性格であるほか、多趣味を持つ魅力的な人柄である。
また、時に遊び心も見せることも多く、芸名の「漣」の由来は、本来は吉祥寺フォークの重鎮高田渡の長男でスティールギター奏者である高田漣の名から取ったものであるが、かつて「漣(さざなみ)」という商品名のコンドームを自身が使用していたことも由来のひとつであるなどと付け加えることも忘れない。 俳優として広く名を知られるようになってからも、舞台・一般映画から娯楽志向の強い2時間ドラマ、Vシネマ、インディーズ作品にいたるまで、決して主要キャストとしての出演にこだわることなく、端役を含めて多数の作品において好演し、他の俳優・女優らが大成後にしばしば見せるような驕りを一切感じさせないことから、その人柄と演技の才能によってファンの支持は根強い。
趣味
散策を好み、ロードバイクに気ままにまたがって、一人で下北沢や新宿・渋谷まで出かけるほか、自身が上京後に最初になじんだ街であるという吉祥寺を好み、現在でもたびたび訪れる。音楽とスポーツを得意とし、特に音楽ではフォーク、スポーツではサッカーに造詣が深い。
エレファントカシマシのファンとして知られ、単なる音楽鑑賞に留まらず、40歳代には田口トモロヲに誘われて器楽の練習を始め、自ら組んだ「大杉漣バンド」や田口トモロヲとのユニット「Har'G KAITELS(ハージー・カイテルズ)」(「恥をかいている者たち」の意)においてギターやブルースハープを手にとり70年代のフォークソングを演奏したり、KAZ BANDと共演する程の腕前となっている。
高校時代にサッカー部に在籍し、自身を「釜本・杉山黄金コンビの時代の第一次サッカーブームの申し子」とまで自称し、「本当は今でも夢はプロのサッカー選手」とまで言及する。柳沢敦の大ファンで、国内リーグから海外リーグにまで精通しており、自己の出身地徳島県をフランチャイズとするJリーグ・徳島ヴォルティスの熱狂的なファンで、チームがプロ組織化する前身の大塚FCであった頃から熱心に応援している。また、プロデューサーや映画監督・大物俳優等100名を越えるメンバーを擁するプライベートサッカーチーム「鰯クラブ」に発起人として参加し、キャプテンナンバー「10」の背番号を付けて月1-2回は必ず試合に出場するなど、かなりの注力ぶりを見せている。近年では、サッカーに対する造詣の深さが周知され、テレビのサッカー関連の番組に招かれることも多く、特筆すべきなのは、2001年に行われたサッカーFIFAコンフェデレーションズカップ日韓大会では、日本戦全6試合の特別ゲストに招かれたことがある。
また、50歳代に映画「Life on the Longboard」で「定年退職後サーフィンを始めた男」を演ずる配役が回って来た際に、役作りとして種子島でサーフィンの猛特訓を行い主役を演じ切った。この経験から、現在ではサーフィンも趣味の一環となっている。
エピソード
映画撮影時のエピソード
* 井筒和幸監督の「ガキ帝国」(1981年)の収録においては、低予算の為に資材が乏しく、自身の出番には僅か4分間分のフィルムしか残っていなかったため、監督をはじめ共演者や撮影スタッフに不安をもたらしたが、1発勝負でNG無しの見事なアドリブ入りの演技をかまし、関係者全員の爆笑を誘った。
* 周防正行監督の、ピンク映画であるにも関らず小津作品へのオマージュとなっているデビュー作「変態家族・兄貴の嫁さん(お嫁さん日和)」(1984年)の撮影では、当時32歳であった大杉にとって、常識的には役作りが不可能な60歳超の老人の役を強要された。しかも、笠智衆ばりの好演を見せた。
* 竹中直人監督の「無能の人」(1991年)で、古本屋の主人役を演じた際、あえて何も演技しない役柄を演じることの難しさを悟った。
* 崔洋一監督の「犬、走る DOG RACE」(1998年)では、歌舞伎町ロケでアメラグ選手に本気でタックルされた上、吹き替え無しで本物の産業廃棄液に頭から浸けられ、死ぬ思いで真剣に苦しむ大杉を見て、崔監督はただ無邪気に笑い、その後も静かにほくそえんでいた。
* 「ソナチネ」(1993年)出演者のオーディションにやむを得ぬ理由で遅刻して参加した際、同作監督でオーディションを統括していた北野武に一瞥されただけだったため、自分は完全に不合格だと思っていたが、後に、大杉漣の実力を充分に精査した北野から事務所に合格通知が入って驚いた言う逸話がある。 * 「ソナチネ」は、東京編・沖縄編の二本立ての構成になっており、当初大杉の役「片桐」は東京編のみで演じる設定であった。
しかし、北野武監督は大杉の演技を気に入り、東京編の撮影終了日に「片桐、沖縄に行く事になるんだよなぁ」と呟き、急遽シナリオが変更されて「片桐」は全編に出演する事となった。
著作
* 2001年
o 現場者(げんばもん)300の顔をもつ男 素顔は渋チャメ系! (マガジンハウス) :
初の書き下ろし自伝エッセイ。
o ゴンタクレが行く (有線ブロードネットワークス) :
雑誌音楽と人に連載中のエッセイ「ゴンタクレが行く」をまとめたもの。
* 大杉漣 Official WEB Site
* Zacco Official WEB Site (所属事務所) 次へ⇒
大杉は、この転形劇場での活動に打ち込み全公演に出演し、同劇場の演目「小町風伝」は岸田戯曲賞を受賞するなど活躍している
下積時代
演劇活動と平行し、呑み仲間を通じて知己となった高橋伴明に誘われて、1980年に新東宝のピンク映画「緊縛いけにえ」に出演し映画俳優としてもデビューすることとなった。
舞台経験を通じて培った表現力と本人の映画俳優への興味から好演したため、製作者を中心に評判を呼び、映画関係者への人脈拡大に伴って日活ロマンポルノや新東宝などのピンク映画に積極的に出演するようになった。
1983年の滝田洋二郎監督の「連続暴姦」においては演技力が評価され、同年の「ZOOM-UP映画祭」・ピンクリボン賞主演男優賞を受賞している。また、翌1984年の周防正行監督の小津映画リスペクト作品「変態家族 兄貴の嫁さん」に於ける、静けさの中にも狂気をたたえた演技や風かおるとの独特の掛合いなどによって、さらに好評を得る様になった。
その後も、おびただしい数のピンク映画に出演するが、1985年6月以降は「にっかつ電車シリーズ」と呼ばれるもの以外の映画への出演を控え、転形劇場における活動に専念している。
しかし、太田省吾一人の才能に頼りがちで興行的にも決して成功しているとはいえなかった転形劇場の運営は悪化し、1988年には転形劇場が解散することとなった。37歳で活動基盤の転形劇場を失った後も、宮沢章夫作品や太田省吾作品への出演、岩松了作品における竹中直人とのコラボレーションを通じて演劇界で活躍した。
俳優としての転機
1989年以降は、再び映画への出演を心がけるようになったが、主要な配役を得ることができず、Vシネマなどに多数出演して収入を確保する生活が続いた。
40歳代に入ると自身の俳優としての将来性について深く考える様になり、種々のステップアップを画策する一環として受けた北野武監督による『ソナチネ』(1993年)のオーディションに合格し、同作への出演を果たして脚光を浴びたことを転機として、次第に一般映画に於ける重要なキャストでの出演を重ねた。1997年には、サブ監督の『ポストマン・ブルース』でおおさか映画祭・報知映画賞を受賞。1998年-1999年にかけては、北野武監督の『HANA-BI』や、大谷健太郎監督の手による『アベックモンマリ』、崔洋一監督の『犬、走る DOG RACE』などにおいて卓越した演技を披露し、1999年度の国内映画賞の助演男優賞を多数受賞するに至って、一般映画やゴールデンタイムのテレビドラマなどの、主役・主要キャストとしての出演依頼がさらに増加すると、その名は広く一般に周知される様になった。
300の顔を持つ男
その後は、偉人群像から社会の底辺に生きる人物、公安刑事から体制破壊主義者、堅実なサラリーマンからホームレス、学校長からヤクザ、好人物から偏狭な人物、誠実な父親・夫から退廃的な不良中年、果ては精神異常・人格障害などを思わせるサイコ色の強い異常人格から変態・エロ系の人物まで演じるに至って、『300の顔を持つ男』と賞賛され「カメレオン」との蔑称を受けるほどになり、その俳優としての名を確固たるものとした。
以後は、高橋伴明、中村幻児、周防正行、滝田洋二郎、黒沢清、井筒和幸等のピンク映画系出身の諸監督から、北野武、サブ、廣木隆一、鈴木俊之、磯村一路、小松隆志、三池崇史らをはじめとする日本映画界を担うあらゆる監督にとって、無くてはならない存在になっている。
その反面、当時は地方(新潟)の一高校生による企画提案を受け、充分な報酬もなくアマチュア自主製作短編映画「黒いカナリア」の主役としての出演協力や、早稲田大学と慶応義塾大学の学生が中心となって撮り下ろした自主制作映画「Mogera Wogura」への出演をいとわないなど、決して驕ることのない性格を見せている。
近年においても、相変わらず、一般映画から大河ドラマ、2時間ドラマ、Vシネマ、インディーズ、ドキュメンタリーのナレーション、バラエティー番組をはじめ、アジア圏の外国映画や内外合作映画にまで出演要請されており、その広い活動範囲と人柄も相まって幅広いファン層を持つ。出演のペースは、映画出演に限っても年間10本は常に下らず、プログラムピクチャー全盛時代が去った近年においてこの出演数を維持する俳優はまれである上、これにテレビドラマやVシネマ、オリジナルビデオなどの出演本数を加えれば超人的な出演数をこなしており、総じて極めて精力的な活動を行っている。
受賞歴
1984年
* 第5回 ピンクリボン賞 主演男優賞
1998年
* 第23回 おおさか映画祭 助演男優賞
* 第23回 報知映画賞 助演男優賞
1999年
* 日刊スポーツ大賞 助演男優賞
* ヨコハマ映画祭 助演男優賞
* 高崎映画祭 助演男優賞
* おおさか映画祭 助演男優賞 (2)
* キネマ旬報個人賞 助演男優賞
* 毎日映画コンクール 助演男優賞
* 東京スポーツ映画大賞 助演男優賞
* 日本アカデミー賞 助演男優賞
* ブルーリボン賞 助演男優賞
人物像
1951年9月27日、徳島県小松島市で誕生する。
人柄
よく気遣いが行き届き、「大人の男」のイメージを持つ。座右の銘が「あるがままに」であることに見られるように、自然体を標榜しており飾らない性格であるほか、多趣味を持つ魅力的な人柄である。
また、時に遊び心も見せることも多く、芸名の「漣」の由来は、本来は吉祥寺フォークの重鎮高田渡の長男でスティールギター奏者である高田漣の名から取ったものであるが、かつて「漣(さざなみ)」という商品名のコンドームを自身が使用していたことも由来のひとつであるなどと付け加えることも忘れない。 俳優として広く名を知られるようになってからも、舞台・一般映画から娯楽志向の強い2時間ドラマ、Vシネマ、インディーズ作品にいたるまで、決して主要キャストとしての出演にこだわることなく、端役を含めて多数の作品において好演し、他の俳優・女優らが大成後にしばしば見せるような驕りを一切感じさせないことから、その人柄と演技の才能によってファンの支持は根強い。
趣味
散策を好み、ロードバイクに気ままにまたがって、一人で下北沢や新宿・渋谷まで出かけるほか、自身が上京後に最初になじんだ街であるという吉祥寺を好み、現在でもたびたび訪れる。音楽とスポーツを得意とし、特に音楽ではフォーク、スポーツではサッカーに造詣が深い。
エレファントカシマシのファンとして知られ、単なる音楽鑑賞に留まらず、40歳代には田口トモロヲに誘われて器楽の練習を始め、自ら組んだ「大杉漣バンド」や田口トモロヲとのユニット「Har'G KAITELS(ハージー・カイテルズ)」(「恥をかいている者たち」の意)においてギターやブルースハープを手にとり70年代のフォークソングを演奏したり、KAZ BANDと共演する程の腕前となっている。
高校時代にサッカー部に在籍し、自身を「釜本・杉山黄金コンビの時代の第一次サッカーブームの申し子」とまで自称し、「本当は今でも夢はプロのサッカー選手」とまで言及する。柳沢敦の大ファンで、国内リーグから海外リーグにまで精通しており、自己の出身地徳島県をフランチャイズとするJリーグ・徳島ヴォルティスの熱狂的なファンで、チームがプロ組織化する前身の大塚FCであった頃から熱心に応援している。また、プロデューサーや映画監督・大物俳優等100名を越えるメンバーを擁するプライベートサッカーチーム「鰯クラブ」に発起人として参加し、キャプテンナンバー「10」の背番号を付けて月1-2回は必ず試合に出場するなど、かなりの注力ぶりを見せている。近年では、サッカーに対する造詣の深さが周知され、テレビのサッカー関連の番組に招かれることも多く、特筆すべきなのは、2001年に行われたサッカーFIFAコンフェデレーションズカップ日韓大会では、日本戦全6試合の特別ゲストに招かれたことがある。
また、50歳代に映画「Life on the Longboard」で「定年退職後サーフィンを始めた男」を演ずる配役が回って来た際に、役作りとして種子島でサーフィンの猛特訓を行い主役を演じ切った。この経験から、現在ではサーフィンも趣味の一環となっている。
エピソード
映画撮影時のエピソード
* 井筒和幸監督の「ガキ帝国」(1981年)の収録においては、低予算の為に資材が乏しく、自身の出番には僅か4分間分のフィルムしか残っていなかったため、監督をはじめ共演者や撮影スタッフに不安をもたらしたが、1発勝負でNG無しの見事なアドリブ入りの演技をかまし、関係者全員の爆笑を誘った。
* 周防正行監督の、ピンク映画であるにも関らず小津作品へのオマージュとなっているデビュー作「変態家族・兄貴の嫁さん(お嫁さん日和)」(1984年)の撮影では、当時32歳であった大杉にとって、常識的には役作りが不可能な60歳超の老人の役を強要された。しかも、笠智衆ばりの好演を見せた。
* 竹中直人監督の「無能の人」(1991年)で、古本屋の主人役を演じた際、あえて何も演技しない役柄を演じることの難しさを悟った。
* 崔洋一監督の「犬、走る DOG RACE」(1998年)では、歌舞伎町ロケでアメラグ選手に本気でタックルされた上、吹き替え無しで本物の産業廃棄液に頭から浸けられ、死ぬ思いで真剣に苦しむ大杉を見て、崔監督はただ無邪気に笑い、その後も静かにほくそえんでいた。
* 「ソナチネ」(1993年)出演者のオーディションにやむを得ぬ理由で遅刻して参加した際、同作監督でオーディションを統括していた北野武に一瞥されただけだったため、自分は完全に不合格だと思っていたが、後に、大杉漣の実力を充分に精査した北野から事務所に合格通知が入って驚いた言う逸話がある。 * 「ソナチネ」は、東京編・沖縄編の二本立ての構成になっており、当初大杉の役「片桐」は東京編のみで演じる設定であった。
しかし、北野武監督は大杉の演技を気に入り、東京編の撮影終了日に「片桐、沖縄に行く事になるんだよなぁ」と呟き、急遽シナリオが変更されて「片桐」は全編に出演する事となった。
著作
* 2001年
o 現場者(げんばもん)300の顔をもつ男 素顔は渋チャメ系! (マガジンハウス) :
初の書き下ろし自伝エッセイ。
o ゴンタクレが行く (有線ブロードネットワークス) :
雑誌音楽と人に連載中のエッセイ「ゴンタクレが行く」をまとめたもの。
* 大杉漣 Official WEB Site
* Zacco Official WEB Site (所属事務所) 次へ⇒